コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

マスコミ特にNHKはジャニー喜多川氏の共犯者である

ジャニーズ性加害問題でジャニー喜多川氏が問題の大元である事に間違いはないが、彼一人の力では到底実行できなかった事実を忘れてはならない。

この問題でテレビやジャーナリストが「報道しないですんませんでした」とやっているが、そこは本丸ではない。彼らからすれば「報道しなかった責任」の追及だけで済めば御の字だ。

「テレビに出してやるから○○しろ」

ジャニー氏の少年らに対するこの取引を実現させるには、テレビにしろ映画にしろ広告にしろ雑誌にしろ、出演させる側の協力が必須である。ジャニー氏がいくら事務所の少年を出したいと言っても、出す側が断ればそこで終わりなのだから。

人選する側が良識を働かせて「数十年前から何度も告発されていた男」の依頼を断っていれば、

(2ページ目)1988年、実名で出版された最初の告発本『光GENJIへ 元フォーリーブス北公次の禁断の半世紀』の内容とは | 文春オンライン

ジャニー喜多川の性的虐待疑惑 - Wikipedia

あるいは、普段から番組の趣旨に合う役者を忖度なしで適切に選んでいれば、一人の男に強大な権力が生じる事態など起こらなかったのである。

その意味でマスコミは共犯である。

しかし彼らも仕事だから、人気タレントの出演拒否がちらつきジャニー氏の意向を無視できなかった、という言い訳はあろう。毎日ワイドショーで正義を振りかざして他人を攻撃している人らの台所がそんな状態というのは噴飯ものだが。

この点、NHKは言い訳のしようがない。

NHKは国民から直接資金を集めて運営されている組織である。芸能村の論理に従う必要がまったくない。ジャニー氏に「うちの○○を起用しないと今後一切ジャニーズ出演させないよ」と言われても「ああそうですか、ご勝手に」と切り捨てればいい。ジャニーズファンが見なくなっても受信料は変わらず入ってくるのだ。「ジャニーズ出ないから受信料払いません」なんて暴挙は放送法が許さない。

NHKには芸能村を切り捨てる力がある。我々がその力を与えている(受信料)。

なのになぜ彼らは番組にジャニーズを起用しまくるのだろう。(秋元組を使いまくるのだろう。吉本を使いまくるのだろう(芸人は便利か。))進んで芸能村に染まりに行って何がしたいのだろう。接待でもされているのだろうか。スポンサー資金に縛られないメリットが何も活かされていない。

芸能村に縛られないはずのNHKがジャニー氏の黒い取引に加担し、被害者を増やし続けた、その罪は重い。NHKは簡単に手を引く事ができたはずなのだ。

世論調査の風評被害

www.asahi.com

風評被害防止の政府取り組みが十分かと聞かれて、地元の方々を思えば、十分だなどと答えられるはずもない。

しかし、科学的に安全だ、周辺国のトリチウム放出濃度の方が高い、とどれだけ説明しても『科学的な安全性の議論と心理的に不安を抱くっていうのは別の次元の問題』などと言って納得しない、納得する気のない知識人がいるこの世界で、できる事が残されているとも思えない。

「サンモニ」目加田説子氏、福島原発処理水を「汚染水」と表現 IAEAの行動「政府手助けに見える」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

世論調査の結果では処理水放出仕方なしの声が大きく、科学的に安全性も担保されているのだから、意味もなく争点にせず騒ぐのをやめれば風評被害は起こらないと思う。科学を蔑ろにして、答えの決まっている世論調査を行い、問題がないはずの事態を争点化しようとする活動の方がよっぽど風評被害を招くと思う。

この世論調査を企図した新聞記者は一体誰が風評被害を招くと思っているのだろう。処理水放出仕方なしと回答した我々が加害者になると言うのだろうか。

そして風評被害を止める為に政府にどんな取り組みが残されていると思うのだろう。

日本ファクトチェックセンターのように政府が、科学的根拠の否定に繋がる言論や、真偽不明の情報で人の不安を煽る言論を取り締まるようにすれば効果覿面かもしれない。

しかしそんな言論統制社会はジャーナリストも我々一般市民も望んではいない。

人道に対する罪とアメリカによる原爆投下

戦争の話になると「歴史に学べ」とよく言われるが、現実には歴史を学ぶ機会がない。義務教育で行われる歴史の授業は縄文時代から始まり、記録の不確かな時代を延々学ばされ、太平洋戦争に入る頃には時間切れで肝心な所にほとんど触れられずに終わってしまう。

NHK大河ドラマは繰り返し同じ時代、同じ武将を取り上げ続けているが、太平洋戦争は全然取り上げない。扱ったのは1984年『山河燃ゆ』の一度きりだ。

「戦争は二度としてはいけない」「だから歴史を学ぶんだ」と学校の先生もテレビに出ている知識人達も口ずっぱく言い続けているのに、その熱意はいつも言葉だけで終わってしまう。個人の悲惨な体験は頻繁に取り上げるが歴史としての戦争には触れたがらない。

おかげで私達は何も知らないまま大人になってしまった。

今年もまた誰それが靖国参拝したと界隈が盛り上がっているが、この問題もいつも右翼左翼の対立に矮小化されてしまい残念に思う。毎年毎年問題として取り上げているのだから、せめて戦犯が何なのか、東京裁判で何が裁かれたのかまで踏み込んでほしい。

そして、なぜ東京大空襲や原爆が戦争犯罪にならないのかまで議論が進む事を願う。

「日本は悪い事をしたのだから不公平な裁判でも仕方ない」という意見は今の世で「犯罪者に人権はない」と主張するのに等しく、リベラル的な価値観にそぐわないと私は考えている。

アメリカの原爆投下が戦争犯罪として裁かれたとしたら、あるいはアメリカが非を認めて謝罪するような事態になったとしたら、核兵器の使用は今より一層難しくなり「核兵器のない世界」の実現にも近付くはずだ。原爆投下を人道に対する罪と追及する事は反核活動とも相性が良いはずなのだ。

本来なら、これは右翼左翼が共闘できるテーマなのである。なのに左翼はいつも日本政府への攻撃が第一義でそれ以外眼中にないし、右翼は靖国問題を英霊を敬えという情念の話にしてしまって残念だ。

8月6日と9日の原爆連続投下に思う事

アメリカが間髪入れずに二発投下した事を非難する言論をあまり耳にしないのが不思議だ。6日に落とされて9日では被害状況を確認する時間すらなかったはずだ。降伏させるつもりで原爆を投下したのなら状況確認の時間を与えるはず。日本を降伏させるのが目的なら被害を確認させた後に「降伏しなければもう一発落とす」と脅すだけで十分だった。

だからアメリカは「広島への原爆は日本を降伏させる為に必要だった」と強弁できたとしても、9日の長崎への投下についてはできない。あれは広島とは別型の原爆の実験だった、単なる虐殺だった、と非難されてもアメリカは否定のしようがない。日本に状況把握の猶予さえ与えなかったのだから。

日本はアメリカを糾弾すべきだった。人道に反する罪とは何なのかアメリカに問いかけて欲しかった。感情的な動機ばかりでない。これは人道を掲げるアメリカという国の急所になりうる汚点だ。外交における一つの武器にできたはずだった。

敗戦した当時の日本国がアメリカに物言う事はできなかったかもしれない。ある程度時間が経過してからはどうだったろう。アメリカ追従の自民党にはできなかったかもしれないが、社会党や後の民主党はこれを追及できなかっただろうか。あるいは市民団体の人権活動、反戦運動の中でこれを取り上げる事はできなかったのだろうか。日本でアメリカの戦争犯罪を追及する機運が高まっていれば、アメリカで反戦運動が盛んになった時代に向こうの人権派と連携できたかもしれない。市民運動が盛り上がれば政治家はこれを無視できない。利用しようとする。そうやって一つの外交カードになる。韓国の市民運動が良い例だ。

広島と長崎への原爆投下は市民を虐殺した人道に対する罪だ。長崎への投下はアメリカ人ですら正当化できない。

日本の言論界で太平洋戦争が語られる時、その構図はいつも加害者としての日本と被害を受けた周辺国、あるいは悪辣な軍部とその犠牲にされた日本国民、という構図ばかりで、もちろんその見方は間違っていないが、人道主義という観点、人権を守るという意識を持っていれば当たり前に見えてくるはずの別の視点が抜け落ちていて大変残念に思う。

「日本は遅れている」と憤る前に考えたい事

男女格差だけじゃない LGBTランキングでも世界の下位に沈む日本の将来(猪瀬聖) - 個人 - Yahoo!ニュース

日本は女性の社会進出や差別などの人権問題に対する取り組みで遅れているとニュースや新聞でよく指摘される。実際遅れているがそれは一体何故だろう。

何故いつも欧米は進んでいて日本は遅れているのだろう。

日本人は欧米人より頑固で愚昧だから、だろうか。

 

百年前は欧米でも人種差別、男女差別、LGBT差別は当たり前だった。

当時日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃の文言を盛り込むよう提案したが却下された。

人種的差別撤廃提案 - Wikipedia

珍しく日本が「進んでいた」わけだが、アメリカもイギリスも賛同しなかった。

 

結局それだけの話ではないのか。何が善か、何が先進か、を決めるのはいつも彼らであって我々ではない。「世界」の価値観に従う以上、日本人が先を走る事など有り得ない。許されない。

日本が欧米に遅れるのは必然だ。彼らがルールを作り変更していく競技に我々は参加している。

「日本は遅れている」と嘆き、仲間に厳しい目を向ける前にまず我々がどれほど不利な条件のゲームをやらされているのか、そこに思いを巡らせたい。そうすれば、遅れてしまった仲間を攻撃するばかりでなく、彼らの手を取り共に歩んで行く道も見つけられるはずだ。

ヤフコメのドイツ脱原発記事オーサーコメントがひどい

このドイツが脱原発に向かうという記事に対して、ヤフコメの上位に表示される専門家コメントの中に見過ごせない物があった。日本若者協議会代表理事の 室橋祐貴 氏は以下のようにコメントしている。

『「ドイツはフランスから電気を買っている」というコメントがたくさん投稿されていますが、むしろドイツは電力の輸出国で、フランスにも輸出しています。(中略)日本のネット上はエネルギー政策に関するデマも多く見られ、まずはファクトを抑えて議論するのが重要です。』(ヤフーニュースコメント欄より引用)

脱原発の文脈における「ドイツはフランスから電気を買っている」という指摘は要するに、太陽光発電風力発電は自然まかせで安定供給が保証されてないよね、ドイツは電力不足の時に原発やってるフランスから電気を融通してもらえるから本当の意味で脱原発ではないよね、島国の日本は真似できないよね、という趣旨なわけだが、この指摘に対して「むしろドイツ電力の輸出国で、フランスにも輸出しています」などと書き、その後の文で唐突にネット上のデマに言及する。

あたかも「ドイツがフランスから電気を買っている」という指摘までもがデマであるかのように匂わせる卑しい文章の書き方だ。

ドイツがフランスから電力を輸入しているのは事実なのだから、ドイツの電力輸出に言及したいなら室橋氏は「むしろドイツ電力の輸出国で、フランスにも輸出しています」と書くべきである。

「ファクトを抑えて議論」と自分で言っているのに何故こんなコメントを残してしまうのか不思議だ。

なお中略した箇所を含めた氏のコメント全文は下記の通り。

「ドイツはフランスから電気を買っている」というコメントがたくさん投稿されていますが、むしろドイツは電力の輸出国で、フランスにも輸出しています。
また原発による電力の減少分を再生可能エネルギーで補っており、化石燃料の割合は徐々に減ってきています。今後も再生可能エネルギーの経済効率性が上がることを踏まえると、値段も下がっていきます。

他方、フランスは原発の稼働が計画通りに実施されていないため、輸入を増やしています。かつ、再生可能エネルギーよりも、化石燃料で補っているため、長期的に値段が下がりにくい状況にあります。

日本のネット上はエネルギー政策に関するデマも多く見られ、まずはファクトを抑えて議論するのが重要です。

(他の方のコメントを踏まえて一言追記しますが、電力の物理的な流れと商業的な流れは別でよく混同されています。物理取引データだけを見るのは間違いではありませんが、不十分な情報です)

テレビ報道は感染拡大抑制を目指すべきだったのか?

テレビ局出身の大学教授、桶田敦氏が行ったコロナ報道の研究。

タイトルからしてそうだが、本文の締めにも何をどう住民に伝達して被害を少しでも抑えるかあるいは、住民はどんな情報を求めているのかをすくい上げるのも放送メディアとしての重要な役割である。との記述があり、著者には「報道はコロナ被害抑制の為に行われるべき」という前提があると感じられる。

そらそうやろと思う人も多いだろう。マスコミ批判の声も考えれば報道関係者が公益を意識してしまうのも仕方ない。しかし何が益になって何が害になるのか、それは簡単に白黒付けられるものではない。ひたすら脅威を煽って委縮し続けた日本は益を得て「日本が見習うべきとされるあの北欧」のスウェーデンは害悪ばかり招いたのだろうか。

先日「外交で解決」の一環でもある日本の10年10兆のインド投資がマスコミで話題になったが3年100兆円のコロナ対策費についても同様に注意を向けてほしい。

赤字だった269病院の平均収支が黒字化したり、

コロナで売上を上げたケンタッキーに時短協力金で業績アシストしたり。

適切でない支出があった事ももちろんだが、適切とされている支出に関しても本当にやる意味があったのか他国の現況と比較して検証すべきだ。当初盛んに取り上げていた他国との比較を途中からまったくやらなくなってしまったのはどうしてなのだろう。

日本はスウェーデンやブラジルより優れたコロナ対策を行ったのだろうか?

それらの国々よりたくさんの人々を救ったと言えるのだろうか?

(ECMO治療後に認知症になり歩行できなくなった高齢コロナ患者の姿を見て「我々は命を救ったんだ」と胸を撫で下ろし安堵の笑みを浮かべられるだろうか?)

第3回 ECMO治療の光と影 | Humony International

「国の借金は次の世代にのしかかる」論に従えば私達は今回の対策で子供達の未来から安寧な生活を奪ったとも言える。今は「ペンケースがダイソーだった」程度で騒いている子供の相対的貧困問題が、絶対的貧困問題に取って代わる未来もあり得る。

何が益になって何が害になるのか、その判断は一筋縄ではいかない。

 

報道の役割は、民主主義を支える為に市井の人々に「判断材料としての情報」を提供する事ではないか。民主主義社会で判断をするのは私達一人一人だ。報道関係者が一方的な価値判断を下して、それに基き情報の取捨選択をしてしまったら報道管制を敷いていた戦時中と同じになる。

何をどう住民に伝達して被害を少しでも抑えるか(桶田氏)

被害を抑える、と言うと善に見えるが、益と害、その実情は複雑だ。その複雑な現実の一面だけを提示して人々に行動変容を促す行為は、私達の「知る権利」に奉仕する報道機関の役割から逸脱している。

よりよい放送のために | 一般社団法人 日本民間放送連盟

大学教授になって冷静な視点を手に入れたはずの元テレビ局ジャーナリストでも、このような思考を当前の事のように披露してしまうのだから、これは根深い問題だと思う。

余談だが、著者の桶田敦を検索してみたら学生への催眠薬使ったわいせつ事件で逮捕されていた。

民放onlineのホームページに論文が載った二か月後に逮捕か。

大妻女子大学文学部コミュニケーション文化学科の教員欄にはもう彼の名前はないが、民放onlineのページ上ではまだ大妻女子大学教授と紹介されている。大学側としては何とかしてほしいだろうなあ。自分で雇ったんだから自業自得か。

ポスドク難民がいる中、ジャーナリストや芸能人やスポーツ選手が次々と教授職を得ていくのは皮肉なものだ。