コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

テレビ報道は感染拡大抑制を目指すべきだったのか?

テレビ局出身の大学教授、桶田敦氏が行ったコロナ報道の研究。

タイトルからしてそうだが、本文の締めにも何をどう住民に伝達して被害を少しでも抑えるかあるいは、住民はどんな情報を求めているのかをすくい上げるのも放送メディアとしての重要な役割である。との記述があり、著者には「報道はコロナ被害抑制の為に行われるべき」という前提があると感じられる。

そらそうやろと思う人も多いだろう。マスコミ批判の声も考えれば報道関係者が公益を意識してしまうのも仕方ない。しかし何が益になって何が害になるのか、それは簡単に白黒付けられるものではない。ひたすら脅威を煽って委縮し続けた日本は益を得て「日本が見習うべきとされるあの北欧」のスウェーデンは害悪ばかり招いたのだろうか。

先日「外交で解決」の一環でもある日本の10年10兆のインド投資がマスコミで話題になったが3年100兆円のコロナ対策費についても同様に注意を向けてほしい。

赤字だった269病院の平均収支が黒字化したり、

コロナで売上を上げたケンタッキーに時短協力金で業績アシストしたり。

適切でない支出があった事ももちろんだが、適切とされている支出に関しても本当にやる意味があったのか他国の現況と比較して検証すべきだ。当初盛んに取り上げていた他国との比較を途中からまったくやらなくなってしまったのはどうしてなのだろう。

日本はスウェーデンやブラジルより優れたコロナ対策を行ったのだろうか?

それらの国々よりたくさんの人々を救ったと言えるのだろうか?

(ECMO治療後に認知症になり歩行できなくなった高齢コロナ患者の姿を見て「我々は命を救ったんだ」と胸を撫で下ろし安堵の笑みを浮かべられるだろうか?)

第3回 ECMO治療の光と影 | Humony International

「国の借金は次の世代にのしかかる」論に従えば私達は今回の対策で子供達の未来から安寧な生活を奪ったとも言える。今は「ペンケースがダイソーだった」程度で騒いている子供の相対的貧困問題が、絶対的貧困問題に取って代わる未来もあり得る。

何が益になって何が害になるのか、その判断は一筋縄ではいかない。

 

報道の役割は、民主主義を支える為に市井の人々に「判断材料としての情報」を提供する事ではないか。民主主義社会で判断をするのは私達一人一人だ。報道関係者が一方的な価値判断を下して、それに基き情報の取捨選択をしてしまったら報道管制を敷いていた戦時中と同じになる。

何をどう住民に伝達して被害を少しでも抑えるか(桶田氏)

被害を抑える、と言うと善に見えるが、益と害、その実情は複雑だ。その複雑な現実の一面だけを提示して人々に行動変容を促す行為は、私達の「知る権利」に奉仕する報道機関の役割から逸脱している。

よりよい放送のために | 一般社団法人 日本民間放送連盟

大学教授になって冷静な視点を手に入れたはずの元テレビ局ジャーナリストでも、このような思考を当前の事のように披露してしまうのだから、これは根深い問題だと思う。

余談だが、著者の桶田敦を検索してみたら学生への催眠薬使ったわいせつ事件で逮捕されていた。

民放onlineのホームページに論文が載った二か月後に逮捕か。

大妻女子大学文学部コミュニケーション文化学科の教員欄にはもう彼の名前はないが、民放onlineのページ上ではまだ大妻女子大学教授と紹介されている。大学側としては何とかしてほしいだろうなあ。自分で雇ったんだから自業自得か。

ポスドク難民がいる中、ジャーナリストや芸能人やスポーツ選手が次々と教授職を得ていくのは皮肉なものだ。