コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

8月6日と9日の原爆連続投下に思う事

アメリカが間髪入れずに二発投下した事を非難する言論をあまり耳にしないのが不思議だ。6日に落とされて9日では被害状況を確認する時間すらなかったはずだ。降伏させるつもりで原爆を投下したのなら状況確認の時間を与えるはず。日本を降伏させるのが目的なら被害を確認させた後に「降伏しなければもう一発落とす」と脅すだけで十分だった。

だからアメリカは「広島への原爆は日本を降伏させる為に必要だった」と強弁できたとしても、9日の長崎への投下についてはできない。あれは広島とは別型の原爆の実験だった、単なる虐殺だった、と非難されてもアメリカは否定のしようがない。日本に状況把握の猶予さえ与えなかったのだから。

日本はアメリカを糾弾すべきだった。人道に反する罪とは何なのかアメリカに問いかけて欲しかった。感情的な動機ばかりでない。これは人道を掲げるアメリカという国の急所になりうる汚点だ。外交における一つの武器にできたはずだった。

敗戦した当時の日本国がアメリカに物言う事はできなかったかもしれない。ある程度時間が経過してからはどうだったろう。アメリカ追従の自民党にはできなかったかもしれないが、社会党や後の民主党はこれを追及できなかっただろうか。あるいは市民団体の人権活動、反戦運動の中でこれを取り上げる事はできなかったのだろうか。日本でアメリカの戦争犯罪を追及する機運が高まっていれば、アメリカで反戦運動が盛んになった時代に向こうの人権派と連携できたかもしれない。市民運動が盛り上がれば政治家はこれを無視できない。利用しようとする。そうやって一つの外交カードになる。韓国の市民運動が良い例だ。

広島と長崎への原爆投下は市民を虐殺した人道に対する罪だ。長崎への投下はアメリカ人ですら正当化できない。

日本の言論界で太平洋戦争が語られる時、その構図はいつも加害者としての日本と被害を受けた周辺国、あるいは悪辣な軍部とその犠牲にされた日本国民、という構図ばかりで、もちろんその見方は間違っていないが、人道主義という観点、人権を守るという意識を持っていれば当たり前に見えてくるはずの別の視点が抜け落ちていて大変残念に思う。