コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

「命と○○どっちが大事なんだ」論

命は大事だ。しかしそれが常に最優先にならないことは、この社会で不通に生活していれば当たり前に分かることだ。もし命が最優先なら今すぐ自動車はなくすべきだし、アルコールも禁止しなければならない。

 

そうならないのは自動車利用で得られる利便が事故で奪われる年間数千(かつては万単位)の命より「重い」と判断されているからだし、アルコールにより得られる快楽が健康被害や飲酒運転により奪われる命より重いと判断されているからだ。「判断なんかしていない」と言う人がいるなら「黙認されている」に置き換えてもいい。

 

要するにみんな「命が最優先ではない」ことを知っているはずなのだ。

命が失われるリスクと社会が得る便益はいつも天秤にかけられている。その天秤が釣り合う場所、リスクを許容するラインは人それぞれ違う。

 

私は自動車事故で奪われる命の多さはもっと目を向けられるべきだと思うし、アルコールで損なわれる人々の健康を思えばアルコールはもっと制限されるべきだと思う。しかしこの意見はあまり多くの賛同を得られないだろう。

 

だからと言って私は賛同しない人々を「命を軽視する薄情者」と非難したりしない。人それぞれ価値観は違い、そこに善悪がないことを知っているし、異なる人々が集まって生きる社会では、ある程度の妥協が必要なことも知っているからだ。

 

社会の問題は常に「どこで妥協するか」だ。天秤が釣り合う位置を皆で探っている。それなのに「命と○○比べたら命が重いに決まっているだろ!」とゼロイチの判断を求めるのは非常にたちが悪い。市民の間でそういう声が上がるのは理解できる。それは自然な感情の流れからあふれ出た思いだ。しかし政治家やジャーナリストといった「オピニオンリーダー」がそういう筋の悪い議論をふっかけているのを見ると脱力してしまう。

 

政敵を倒さなければ先に進めない彼らにとってそれはやむを得ない行為なのかもしれない。しかし軽薄な言葉で民衆を扇動しようとするリーダーに多くの市民の支持が集まるものだろうか。

 

オリンピック開催で得られる便益は何なのか、どれほどの命が失われるリスクにさらされるのか。中止にした場合どれくらいの命が救われ、代わりに何を失うことになるのか。具体性を持った現実的で理知的な議論を望む。以前紹介したように新型コロナの影響については学者が色々なシミュレーション結果を出してくれている。感情ではなく理性に基づいた議論ができる素地は十分にあるはずだ。