コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

学力別クラス分け 平等な公教育

テレビでこの手の話題が取り上げられるのは珍しい。良い事だと思う。

テレビで仕事をする芸能人が発言できる内容は限られているだろうから、マツコ氏の発言から氏をどうこう言うつもりはない。芸能人は求められた役割を果たすだけだろう。今回は平等な教育を考える上で良い発言があったので取り上げたい。

『(学力別)クラス分けなんてしちゃったら、塾と一緒じゃん、もう。わざわざ学校を作る意味なんてもう…みんな塾行かせればいいじゃない、そしたら』『わがまま言う人は私立行かせれば良いんだよ』

クラス分けしたら塾と一緒。その通りだ。わざわざ学校を作る意味なんてない。学校を廃止して浮いたお金で子供達に好きな私塾に通うチケットを配ればいい。

塾は必要とされているから存在しているのであり、この話は逆に言えば学校が教育機関としての役割を果たしていない証とも言える。親達あるいは子供達自身が、学校の授業は不十分だと感じているから塾に行くのである。

塾は結果を出さなければならないから教育効率を重視する。効率を重視すれば進度別のクラス分けという結論に至る。一方学校はと言うと、マツコ氏が言うように、

『つまずいていいじゃん。勉強でつまずいたときに、勉強以外にやらなきゃいけないことを作ってあげる方が、私は本来の姿だと思ってるの。みんながみんな、大学受験に向けて、それだって日本の大学受験なんて暗記じゃん、ほぼ。』

勉強とは違う何か

を追求する場所なので教育効率など気にしない。大切なのは結果ではなくイデオロギーだ。クラス分けなどして子供を差別しない。

その高邁な思想の下で、塾に通える豊かな家庭の子供ばかりが東大に進学するという格差が生まれた。

なお、このデータは「金を稼いで裕福になるのは勉強できる者であり、その勉強できる能力は子に受け継がれる」事を意味しているかもしれないから鵜呑みにしてはいけない。しかし「塾に行った方が難関大進学に有利」を否定する人はいないだろう。

これは「東大に行けないくらいで泣く事ないよ」と諭せば済むような話ではない。この話からは塾に行く事が高等教育を受ける前提になってしまっている日本の公教育の問題が垣間見えるのだ。

次の記事は物価高が困窮世帯に与える教育面の影響についての調査だが、本文中に

『高校生がいる世帯を対象に、高校生の進路への影響を尋ねた結果では、「塾や予備校に行けない」を挙げた割合が54%に達し、』

という記述がある。塾や予備校に行けない事が高校生の進路を左右する重要な要素と認識されているのである。高校生の進路を左右しかねない重要な教育を、国が国民に平等に与えられていない現状は大問題である。

金を払って塾に通った者だけが高度な教育を受け、意欲と才覚があっても塾に通えない者はその機会を失う。これを平等な教育と呼べるだろうか?

この教育格差は簡単に解決できる。学校が塾並の教育を提供すれば良いのである。

塾と学校の決定的な違いは何か。それはマツコ氏が言及していた「クラス分け」である。講師の質や教科書、カリキュラムは、学校がその気になればどうにでもなる。塾を学校化してしまっても良い。何より重要なのは進度別のクラス分けだ。理解の早い者には先を与える。これが許されれば学校も塾と同じ役割を果たせるようになる。

 

子供達を選別して落ちこぼれを作る教育を平等と言えるのか、それを公教育ですべきなのか。その疑問は常につきまとう。置いて行かれる子供の心境を思うと私も大きな声でこれが絶対に正しいとは言えない。

「誰も取り残さない」

その決断も慈愛に満ちていて良い。全然間違っていない。しかし、その決断をしたならそこから生まれてくる別の問題に真摯に向き合わねばならない。公立進学校を潰したりして「平等な公教育」に邁進してきた人々が、その結果として生じた「体験の格差」の塾に言及して、ただ「不平等だ」と喚くのは非常に無責任な態度だと思う。

 

昔テレビのドキュメンタリーで、ごみ処分場の危険なスクラップの山から売れそうな物を回収して生活する貧国の子供達を見た。彼らは取材に笑顔を見せ「本当は学校に行きたい」「学校で勉強して将来は技術者になりたい」みたいな事を言っていた。

学校は「生きる力」を教える場だろうか。勉強以外にやらなきゃいけない事を提供してやる場だろうか。

何もかも等しくする事はできない。公教育の原点を振り返れば、何の平等を優先すべきか見えてくると思う。