コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

取材せず憶測を記事にする時事通信

時事通信記者のおっしゃる通り日本に反発した可能性も否定はできないが、新聞記事にそう書くなら北朝鮮政府関係者の言葉や、せめて朝鮮中央テレビで日本への言及があった程度のソースが必要ではないか。この記事の文章を読む限り、関係者に取材した形跡もなく「日本に反発」は完全に記者の憶測でしかない。ジャーナリズムの最前線でこういう記事が許されるのかと驚く。

護憲派は日本人を信用していない?

周辺国が日本にミサイルを向け、発射すらしている状況で、日本に「武装やめろ」と言うのはさすがに無茶だろう。周りが日本に攻撃を仕掛ける意思を見せているのだから対応せざるを得ない。反撃する力がなければどうなるかは歴史を振り返るまでもない。

状況によっては日本に住む人々を守る為に、敵の攻撃拠点を先に破壊しなければならない事もあろう。「犠牲者が出てから応戦しろ」と言えるなら別だが「何よりもまず命」である外交での解決を目指すのは当然だが、日本に向けてミサイルを発射する国がある状況で、敵無力化の手段を用意するのは国民の命を預かる政府にとって義務とも言える。

それに武力は外交力の一部だから外交での解決を目指すにしてもその充実は重要だ。「外交で解決しろ」派の人もその事実には目を向けてほしい。日本に「武力を捨てろ」と言いつつ「外交でイニシアチブを取れ」は手足を縛って「ホームラン打ってこい」と打席に送り出すようなものだ。

今の日本は国民主権の民主主義国家であり独裁者が独断で軍事侵攻を決定できるような政治プロセスを持つ国ではないのだから、仮に長距離ミサイルがあっても先制攻撃が可能になる法律があっても国際平和を脅かす事にはならない。なぜなら今の日本国民が太平洋戦争当時のような他国への侵略を望むはずもないのだから。

それとも護憲派反戦活動家の人達は、現代の日本に生きる今の私達日本人に対しても「こいつらが武力を持ったら絶対にまた侵略戦争を起こす」と思っているのだろうか。日本の社会で人々と交流し、日々平和な生活を送っているというのに、その人達に対しても「武力を持ったら豹変して侵略戦争を始めるに違いない」と疑惑の目を向けているのだろうか。

共同通信が値上げ賃上げ記事でミスリード

共同通信が企業に商品値上げと賃上げに関するアンケートを行ったというこの記事。

値上げについて23%が値上げを検討していると答えた。約半数は未定とし、値上げの可能性を否定しなかった。と記述しているのに対し、賃上げの方は『一方、物価高を考慮した賃上げに前向きな企業は一部で、家計の負担感が増しそうだ。』と数字を出さない書き方をしている。

一部っていったい何パーセントなんだと図を見てみたら「賃上げする」が6%「前向きに検討」が18%。つまり24%が賃上げ検討しているわけでそれって値上げ検討している企業とほぼ同数じゃないか!

賃上げ前向き企業を一部と表現するなら値上げ前向き企業も一部じゃないの?

そして『値上げの可能性を否定しなかった企業が約半数』と言うなら賃上げの可能性を否定しなかった企業は『分からない30%』『非公表33%』を足した63%で半数以上になるのでは?

ていうか一方の数字を本文中に出したならもう一方も本文中に出して比較できるようにしないとまずいだろう。この記事は値上げの結果は文章で記述され、賃上げの結果は円グラフで表示しているから厳密に比較できない。しかも文章で記述された値上げの方はアンケートの細部が不明ときている。要するに調査結果を適切に公表していない。単純に円グラフを二つ並べれば良かっただけなのだ。

学術論文でこんな書き方したら笑われる。普段「科学に基け」と言ってるジャーナリストがこれだからどうしようもない。「科学の時代」なのだから大学に行って科学論文一本すら書かずに卒業して知識階級になれてしまう現状は変えないといけない。

おそらく彼らは「値上げ予定企業はたくさんあるが、賃上げは少ない」という結果が欲しくてこのアンケートを実施したのだろう。しかしその意向に沿った結果が出てこなかったからこうやって一部データを隠蔽して記事にしたのだろう。二つ円グラフを並べてしまうと期待に反して差が出ないから言葉を並べて巧みに印象操作したわけだ。

ジャーナリストがこういうミスリードを平然と仕掛けてくるからほんとうに怖い。

私達は本当にメッシを見たいのか?格差社会

今回のワールドカップは何か月も前からテレビで宣伝されるような事もなく静かに始まって良かった。興味ない人まで巻き込んでお祭り騒ぎにしていた時代は異常だったと個人的には感じている。

ドイツ戦は日本の戦術変更が鮮やかに決まって爽快だった。ドイツがそれに対して策を講じなかったのは謎だが、戦力が個人の足し算にとどまらないサッカーの魅力がよく出た試合だったと思う。サッカー好きはこの後のドイツとスペインの強豪国同士の戦いも楽しみにしている事だろう。


強いチームのサッカーを見るのはやはり楽しい。トラップが乱れて敵にボールが渡って、を繰り返す試合はフラストレーションがたまる。しかし細かい事にこだわらなければ、どの国のサッカーでも十分に楽しめる。技術が最高峰より劣っていたとしても、自分より遥かに優れた能力の持ち主達が繰り広げる戦いだ。弱小と言われる国の試合でもその迫力に圧倒される。

 

さて、ここで表題のテーマについて考えてみたい。メッシのテクニックは最高だ。ボールが足元からまったく離れないドリブルを見ていると思わず笑ってしまう。バルサ専用機だなんて揶揄される事もあるが、プレーを見ていたらそれが不当な批判だとすぐに分かる。あのテクニックが通用しないわけがない。アルゼンチン代表の試合を見ると、もう少し動いてスペース作ってやればいいのにと思うし、周囲が気を遣いすぎて停滞してしまう感があるのは否めないが。

 

メッシは年に数十億円だとか百億円だとか稼ぐらしい。使い切れないような金額だ。ひるがえってJリーガーの稼ぎの話を聞くとその差に驚く。メッシは最高に上手いが、果たしてJリーガーの百倍、千倍優れているのだろうか?もちろんそういう単純な話でない事は承知しているが、そう問わずにはいられない。

私達はJリーガーのプレーでは満足できないのだろうか?

メッシでなく齋藤学のプレーでは興奮できなかったのだろうか?

どちらも一流である事に変わりない。並べてしまえばその差は目に付くかもしれないが、観戦して楽しむという意味ではJリーグの試合でも、齋藤学のドリブルでも十分感動できたはずだ。

もしも私達がテレビやネットでスペインやイングランドのリーグ戦を見るのをやめて、地元のサッカーチームの試合を見に行くようになったら、メッシとJリーガーの無残な収入差も縮まるのではないだろうか。

サッカー選手や選手を目指す子供達が超一流のテクニックを見られない状況というのは好ましくないが、観戦を楽しむだけの私達一般市民が超一流の技術に触れられなくても損失ではない。甲子園を見て感動できるのだから、必要なのは最高水準の試合でない事を私達は知っているはずだ。

濫用される陰謀論 秦正樹氏と籏智広太氏による事例

これまで書いてきたように陰謀論はその言葉が何を指してているのか実ははっきりしていない。よく例で挙げられる「新型コロナワクチンは人類を減らすため」は分かりやすいから異議を唱える人もあまりいないと思うが、「選挙に不正があった」をそれなりの証拠付きで提示されたらその証拠を検証するまで陰謀論と断定できるはずもない。

トランプ陣営が主張したからジャーナリストの方々は自信満々に陰謀論と言うのであって、これがもし自民党関係者が開票作業に介入し相当数の立憲民主票を無効にした」という話だったらどうだっただろう?彼らは「選挙結果に民意が反映されていない!」と主張する人達に「それは陰謀論だよ」と諭すことができただろうか。

 

陰謀論』は定義が不明確なまま濫用されている。敵を攻撃する道具として。
それはこの秦正樹氏と籏智広太氏によるバズフィードの記事を見るとよくわかる。

記事の後半まで読むと在日特権陰謀論と出てくる。少なくとも住民税が減免されていたという話はあるのだから、在日特権を丸ごと陰謀論にするのは無茶だ。

(それは「特権」ではないよ、と言う人は例えば安倍氏の親族がわけもなく山口県の県民税を減免されていたら何と呼ぶか考えてみてほしい。)

事実かどうか確認できない、ならまだしも事実として新聞に出た話をなかった事にするつもりだろうか。(この話、ネットで検索したら記事がj-castしかヒットしないから驚いた。当時は朝日新聞も記事にしていたのに。)

もちろん中には憎悪をなすりつけただけのデマもたくさんあるだろう。ネット上では彼らに対する異様なまでの憎悪発露を見るから当事者やその友人らが神経質になるのは理解できる。しかしだからと言って事実を曲げてはいけない。それが新たな憎悪を生む原因にもなる。

「新聞社」によって確認された事実までも陰謀論にされてしまうなら、一体この世のどこに陰謀論者でない正常な人間がいるというのか。大学教授ジャーナリストならばもう少し思慮深くなってほしい。そして敵を殴りつける道具として『陰謀論』を使うのはやめてほしい。

なぜモリカケ安倍黒幕説は陰謀論でないのか?秦正樹 氏の定義

ネット上でまた新しい『陰謀論』の定義を見つけた。

秦正樹氏によると「政治や社会において重大な事件・出来事が起きた究極的な原因を、強い影響力を持つ2人以上のアクターの秘密の企みで説明しようとする試み」陰謀論の定義だそうだ。

これまで紹介した定義比べると効果的でない言葉が多く、対象を絞り切れていない印象。「政治や社会」「究極的な」「強い影響力」「試み」あたりの言葉はなくてもよさそう。「究極的な」と「強い影響力」には逃げの姿勢も見える。まあどうでもいいか。考えてみたいのは、

なぜ陰謀論の定義は人によって違い、そしてこうも複雑なのか

ということ。

シンプルに「出来事の原因を誰かの陰謀だとする推論」ではいけないのか?

普通の人が「陰謀論」と聞いて思い浮かべるのはこんな感じのラフな定義だと思う。

 

陰謀論の定義が複雑になってしまう理由は、多分この言葉が他人を批判する文脈で生まれた言葉だからだと思う。おかしな事を言っている人に「君それおかしいよ」と伝えるための言葉。でも「おかしい」かどうかは見る立場によって変わる

・トランプ支持者にはトランプの主張する「選挙に不正があった説」はおかしく見えない。
・反安倍派には「モリカケ安倍黒幕説」はおかしく見えない。

どちらも公式には正しくない見解だから両者ともに陰謀論のはずだ。

難しい話でも何でもなく、普通に考えればどちらも陰謀論なのだ。しかしこの言葉を使う人達には敵(バズフィードの記事にも陰謀論者は民主主義の敵的な記述がある)を非難するという目的があるから自分達の主張は陰謀論に当てはまらないようにしたい陰謀論のスコープは攻撃対象の言説だけピンポイントにしたい。本質的に同じものを違うとするのは至難の業だ。必然的に定義は複雑化する。そうして一般人に理解できないような『陰謀論』の定義が生まれたり、人によって定義が違ったりする事態が生じる。

 

秦氏の定義について言っているわけではない。彼の定義にそういう意図は見えない。彼の定義に従っても「モリカケ安倍黒幕説」は陰謀論になる。今現在の話だけではなく、wikipediaで言及されている陰謀論の言葉の歴史を見て思った。

もちろんこれは私の空想に過ぎない。日頃『陰謀論』を武器にネットの素人と戦う言論人の目に留まったら「これぞ陰謀論!」と吊るしあげられるような内容だ。

学者やジャーナリストといった権威ある人からそう言われたら委縮して黙り込むよりほかない。『陰謀論』というワードは実に恐ろしい。

山口真一氏の『陰謀論』定義がヤバイ 朝日新聞

前回『陰謀論』の言葉の定義が曖昧である事に言及しウィキペディアを取り上げたが、今回は朝日新聞の記事内で見つかった経済学者の山口真一氏による定義を取り上げる。こちらはwikipediaと違って簡潔で分かりやすい。

陰謀論の定義は難しいが、おおむね「何らかの出来事について、背後に強力な集団・組織による力が働いているという考え」といえる。』

分かりやすいけどガバガバすぎ。これでいいと思ったのか?良くないと認識しているから「おおむね」付けて濁したのだろうが。テキトーな仕事だ。

何らかの出来事の背後に強力な組織があるのは当然である。

「オリンピック開催の背後に電通の力が働いていた」

これは陰謀論だろうか?電通はオリンピック招致の前面にいた主体ではなく背後にあった組織だから、山口氏の定義に従えば陰謀論だ。実際、事実関係が明るみに出る前に「電通が賄賂で五輪を~」なんて言ってたら陰謀論扱いされたのは想像に難くない。しかし今では単なる事実になってしまった。陰謀論の線引きは一体いつどこで行われるのだろう。

森友学園用地値下げの背後に安倍氏の力が働いている」

これはどうか?山口氏の定義に従えばこれも陰謀論だ。実際、公に認定された事実だけ見ても安倍氏の関与はないから陰謀論に違いないが、これを陰謀論と言ったら朝日新聞も多分山口さんも怒るだろう。

加計学園認可の背後に理事長友人である安倍氏の力が働いている」

山口定義に従えば陰謀論

統一教会の信者搾取の背後に自民党の力が働いている」

山口定義に従えば陰謀論

「伊藤詩織さん暴行事件で加害者のTBS記者山口敬之氏が不起訴になったのは安倍政権の圧力」

これも山口定義に従えば陰謀論。全部陰謀論になるが良いのか?私は一向に構わないが、今『陰謀論』というワードを振りかざして素人を非難している人達は困るだろう。

 

このように『陰謀論』は実は定義すらまともにされずに濫用されている雑な概念なのだ。立場によって陰謀論になったり正論になったりする。

「君の意見は陰謀論だけど僕の言論は陰謀論じゃないよ」を実現するためには陰謀論の定義をウィキペディアのそれのように複雑に入り組んだ形にするしかない。それですら不十分だろう。

もしあなたが何か発言してそれを陰謀論咎められたら「陰謀論の定義は?」「モリカケ安倍黒幕説は陰謀論?」と聞いてみればいい。そこで議論は終わるはずだ。

 

なお私はリンク先の朝日新聞記事に陰謀論として記載されている『コロナワクチンは人口減少をもくろんだものだ』という説を支持しない。私は当ブログ記事で陰謀論というワードが未定義のまま濫用されている事実を指摘したいだけであり個別の真偽について言及する意図はない。