コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

気候変動問題を解決するのは活動家なのか?

テレビニュースを見ていると気候変動などの社会問題解決を目指す活動家の学生がよく取り上げられる。池上氏によるテレ東ニュースの学生特集コーナーを見ても、団体を作って交流したり政治に働きかけたりする学生の話ばかりで、理系の地味で過酷な研究活動に従事する学生にスポットが当たることはない。

しかし気候変動問題を実際に解決できるのは誰だろう。CO2排出を減らす技術を開発するのは誰だろう。再生可能エネルギーのコストを下げて普及させよ、と言うがコストを下げる技術革新は誰がやるのだろう。少なくとも三角関数の使い道が分からないような人々にはできない。

ニュースでキャスターが「科学の時代」を口にしてトランプ批判するのに、日本の大学は科学論文を一本も書かないで大学卒業資格を得られてしまう。もしかしたら批判している本人も、科学論文を書いた事はおろか読んだことすらないかもしれない。これまでのコロナ報道を見れば、論文検索して最新情報を探し出してくるような人材がいない事は分かる。

重要なのは蟻の仕事である。もちろんキリギリスも必要だが、歌好きはいくらでもいるのだから支援してまで増やす必要はない。報道に感化された若者が蟻の仕事を軽視し、歌を習いに大学に通う世にならない事を願う。

交通事故で死亡の10代をコロナ犠牲者と誤認させる見出しを付ける東京新聞の倫理観

この記事は大分前のもので今更ではあるのだが、報道のミスリードの好例として記録しておきたい。この時はテレビニュースでも「コロナ感染の10代死亡」とやっていた。この記事を最後まで読むと分かるように事実は「交通事故で死亡した10代を検査したらコロナ陽性だった」というもの。

<新型コロナ・28日>東京都で新たに248人が感染 死者8人、重症者117人 都内で初めて10代死亡:東京新聞 TOKYO Web

www.tokyo-np.co.jpコロナによる死亡者や重症者の数を伝える見出しにこの10代死亡者を並べたらまずいことは彼らも分かっていただろう。交通事故で死亡したのに、この見出しではまるでコロナで10代が死亡したように読み取れてしまうからだ。

なぜこういう愚かなことをしてしまうのかと言えば、アクセス数を稼ぎたいのもあるだろうが、彼らの間違った使命感のせいだろう。

「感染拡大を抑止するために人々がコロナを甘く見ないような伝え方をしなければならない」

彼らはそれが正義だと思っているから、読者を欺くような見出しを付けても平気でいられるのだろう。しかし、報道の仕事とはそういうものだっただろうか?

世の中を「彼らが信じるより正しい方向」に導くため、世論誘導するのがジャーナリズムだっただろうか?

統一教会と政治家をめぐる報道が怖い

統一教会と政治家(自民党)をめぐる報道(新聞週刊誌ワイドショー)が怖い。

日本が韓国に貢ぐべきなどという教義の宗教団体は潰れたほうがいいのは当然だが、政治家が会ったとか挨拶したとか。それは連日の集中砲火を受けるほどの悪事なのか?

安倍氏は殺されても仕方なかったほど統一教会に便宜を図ったのか?

 

接点が罪だと言うのなら、集中砲火を浴びせている側も統一教会の問題を知りながら長年見て見ぬふりしてきたのだから仲間だろう。安倍氏が暗殺されるよりずっと前に今のように糾弾すべきだった。

 

しかし、もし安倍氏の首相在任中に統一教会に解散命令が出たりしたらどうなっていただろう。「韓国嫌いのアベが強権を発動して弾圧した」と非難の嵐になっていたことは想像に難くない。

果たしてオウム真理教破防法適用に反対した人々は支持してくれただろうか。

www.nichibenren.or.jp

NHKのみんなの歌でジャニーズ 公共性ってなに

先日ラジオを聴いていたら真面目なアナウンサーの声で「次はみんなのうたです。曲はセクシーゾーン」というフレーズが流れてきて失笑した。NHKアナウンサーがセクシーゾーンと発音するのも笑えるし、みんなのうたでジャニーズを取り上げるのもおかしい。

大きなバックが存在する芸能人の歌は公共放送が取り上げないでもあちこちで流れるのだから、金の出所が違うNHKがわざわざ重複して取り上げる必要はない。

 

広告屋に支配されずに済む受信料収入があるのに、広告屋が治める世界に自ら足を踏み入れるなら民放と何も変わらないから受信料収入の特権はもう必要ないだろう。

 

安室奈美恵の引退や嵐の解散がニュース速報のテロップにあの効果音と共に流れた時も
思ったが公共放送とは一体何だろう。私には芸能人が仕事を辞めるという情報に公共性も速報する価値もあるとは思えない。

「みんなが知りたいことを知らせるのが公共放送だ」では定義が曖昧で「みんな」も「知りたいこと」も時と場合によっていかようにも設定できてしまうから、定義のすり替えができないようにもっと具体的にはっきりと「公共性」の定義をしてもらいたい。

共同通信が山上容疑者をアシスト

共同通信のこの記事はやばいね。

安倍派が最多と指摘する意味はなに?
安倍氏統一教会を結び付けたい記者の意図が見え透いている。

実際に結びついている?

では、安倍氏統一教会にどんな便宜を図っていたというのか。
統一教会が日本から女性や金を奪い去る行為に安倍氏がどんな風に協力していたのか。
(収奪をアシストしたのは安倍氏自民党ではなく、むしろ左翼教師や左翼知識人によって我々に刷り込まれた「日本人は韓国人に贖罪し続けるべき」論だと思うが。)

便宜を図った話が何も出てこないのに執拗に安倍氏統一教会の結び付きを印象付けようとする。エリートジャーナリスト達が、正当ではない暗殺犯の動機に正当性を与えようとする。

接点があるだけで、殺されても仕方ない空気に持って行かれるなら今後政治家は素性が明らかで社会に広く認知された団体以外と交流しないようになるだろう。切実な社会問題の陳情に来たNPOに対して「どこかの宗教団体の下部組織かもしれないから会わない」とか「違法行為を厭わぬ過激派が内部にいるかもしれないから関わらない」となるだろう。

 

これがジャーナリズムなのだろうか?
当のジャーナリスト達はこれでいいと思っているのだろうか?
この異常さを内部で批判する者は誰もいないのだろうか?
外から批判してくるやつはみんなネトウヨ、で済ませていいのだろうか?

岡秀昭氏の倉田真由美氏ツイート記事に対するコメント

テレビにもよく出演されていた医師の岡秀昭氏が倉田真由美氏のツイッターコメントにヤフコメで苦言を呈していた。

いわく「医療現場の実情をよく知らない方が発信することではない」と。そして倉田氏の意見を取り上げたマスメディアに対し、「このような内容のないニュースではなく疾病の正確な情報、信頼できる専門家の意見、患者や現場の事実を伝えて」と仰っていた。

もっともな意見だ。知識もないのに文句を言うな、はどの業界で働いている者でも言いたくなる言葉だろう。常日頃から文句ばかり言われている官僚や政治家も心の中ではそう思っているに違いない。

だがもちろんそれを口にしたりしない。

 

民主主義社会は専門家が支配する社会ではなく、市民一人一人の判断の積み重ねの上に成立する社会だからだ。愚かな意見だとしても決してその人の口を塞いだりしてはいけない。力ある立場の者が力なき一市民の口を塞いではいけないことを知っている。

医師は権力者だ。医師が患者に対してどれだけの権力を持っているのか考えてほしい。患者は命を人質に取られているのだから医師に対して政治家以上の力の差を感じている。口ごたえなんてできない。いつも機嫌を損なわないように顔色を窺っている。時に医師の言葉は政治家以上に力を持つ。岡氏には自身が社会で力を行使する側にいるということを理解してほしいし、ヤフコメで一市民のツイートに噛みつき言論を抑制させるような行為は慎んでほしい。

 

マスメディアに対する岡氏の批判、これももっともである。マスメディアは新型コロナ報道でネガティブ情報にバイアスを掛けて発信すべきではないし、そうやって我々の行動のコントロールを試みるべきではない。市民に正しい判断を行うための情報提供をするという本来の役割に専念すべきである。

そのためには煽情的なネガティブ情報ばかり提示する専門家の意見だけでなく、統計を理解した専門家、数字に基く冷静な情報を提示できる専門家にもテレビ出演を依頼し、その意見も同様に伝えるべきである。

安倍元首相暗殺はデマ、誹謗中傷、ヘイトスピーチを放置した結果では?

5ちゃんねるでは何年も前からしつこく書き込まれていたが、安倍元首相と統一教会の関係性などというのは真偽不明の不確かな情報である。普段「ネットのデマを許すな」と騒いでいる人達が、この不確かな情報が原因で実行された暗殺を非難するどころか、補強しようとあれこれ引っ張り出してきている姿を見ると戦慄する。

それで、殺されることが正当化されるほどの関係性は見つけられたのだろうか?

統一教会幹部より重い責任が安倍にあったというのだろうか?

 

近年、反安倍派の憎悪は怖いくらいに膨れ上がっていた。大学教授やジャーナリスト、政治家までもが安倍氏へのヘイトを公言している様を見て、私は恐怖を感じていた。彼らが何かする前に政権交代が起こった方がいいのではないかとさえ考えていた。社会的地位のある言論人の言論を止める術はないから憎悪に歯止めがかからなかった。だから安倍氏が退陣した時は少しほっとした。

政治家のこういう活動や、大学教授やジャーナリスト、ミュージシャンなど社会的地位のある人達の垂れ流すヘイトスピーチが言論業界で許容され続ける空気は、犯人の安倍氏殺害のハードルを下げるのに一役どころではなく買っただろう。

 

リベラルを自称し自由や民主主義を掲げる知識人の方々は、常にリベラル思想の本質に思いを巡らせていてほしい。そして自分達の言動がその理想から逸脱していないか、崇高な思想を汚していないか、自分自身を省みる思考力をどうか身に着けてほしいと願う。