コロナとマスコミ

マスコミが世論を先導する社会でいいのだろうか

「コロナヤバイ」以外認めない報道

コロナ報道は不安を煽るくらいでいい。

ニュースを見ていると作り手のそういう思いはよく伝わってくる。

 

・ウィルス変異の脅威ばかりを伝え、弱毒化していく可能性は絶対に伝えない

後遺症以外の可能性が十分に考えられる脱毛を後遺症と断定するように報道する

・新型コロナの脅威度については医師の間でも様々な見解があるのに「とにかく危険」以外の声を絶対に視聴者に届けない。

www.dailyshincho.jpなぜこういう意見はテレビで少しも取り上げてもらえないのだろう。

毎日同じ専門家が出て同じことばかり言っているのはなんなのだろう。意見の多様性、多角的なものの見方とは何だったのだろう。

 

恐ろしいことに新型コロナの影響をさざなみと称した学者がその発言を責められ辞任に追いやられた。物事に色々な見方があるのは当然だったはず。間違っていると思うならその誤りを論理的に指摘すればいい。そうやって議論を深めていくことが民主主義だったのではないか。

しかしこうなるとまともな議論を期待するのはもう難しい。新型コロナの影響を少しでも甘く見る(統計的に把握し、他の感染症と比較しながら対策を考える)と人でなしの烙印を押されてしまうのだから。

 

マスメディアにはオリンピック開催に進む政府を「まるで戦時の日本だ」と言う人もいる。しかしそれを言うなら「コロナやばい」以外の言説を認めない彼らの姿こそ「日本勝利」以外を許さなかった当時の日本と重なって見えるというもの。

 

甘い見込みを示して人流が増大し感染拡大したら、という懸念はあろう。しかしそれをコントロールするのは報道の役割ではないはずだ。ジャーナリズムとは市民の行動を制御するために、伝える情報を取捨選択する行為を指す言葉ではなかったはずだ。

 

新型コロナで不安を煽ると視聴率を稼げるのかもしれない。憎い政府を打倒する絶好の機会なのかもしれない。ジャーナリストにもそれぞれ色々な思惑はあると思う。しかしいい加減市民を馬鹿にした煽情報道や、公表済みの陽性者数を読み上げて「感染拡大に歯止めがかかりません」と言うだけの報道は止めて、まともな議論に資する情報、つまり学術誌に数多掲載されている統計学を駆使した多様な分析結果を伝えるような真っ当な報道をしてほしいものだと切に思う。

「命と○○どっちが大事なんだ」論

命は大事だ。しかしそれが常に最優先にならないことは、この社会で不通に生活していれば当たり前に分かることだ。もし命が最優先なら今すぐ自動車はなくすべきだし、アルコールも禁止しなければならない。

 

そうならないのは自動車利用で得られる利便が事故で奪われる年間数千(かつては万単位)の命より「重い」と判断されているからだし、アルコールにより得られる快楽が健康被害や飲酒運転により奪われる命より重いと判断されているからだ。「判断なんかしていない」と言う人がいるなら「黙認されている」に置き換えてもいい。

 

要するにみんな「命が最優先ではない」ことを知っているはずなのだ。

命が失われるリスクと社会が得る便益はいつも天秤にかけられている。その天秤が釣り合う場所、リスクを許容するラインは人それぞれ違う。

 

私は自動車事故で奪われる命の多さはもっと目を向けられるべきだと思うし、アルコールで損なわれる人々の健康を思えばアルコールはもっと制限されるべきだと思う。しかしこの意見はあまり多くの賛同を得られないだろう。

 

だからと言って私は賛同しない人々を「命を軽視する薄情者」と非難したりしない。人それぞれ価値観は違い、そこに善悪がないことを知っているし、異なる人々が集まって生きる社会では、ある程度の妥協が必要なことも知っているからだ。

 

社会の問題は常に「どこで妥協するか」だ。天秤が釣り合う位置を皆で探っている。それなのに「命と○○比べたら命が重いに決まっているだろ!」とゼロイチの判断を求めるのは非常にたちが悪い。市民の間でそういう声が上がるのは理解できる。それは自然な感情の流れからあふれ出た思いだ。しかし政治家やジャーナリストといった「オピニオンリーダー」がそういう筋の悪い議論をふっかけているのを見ると脱力してしまう。

 

政敵を倒さなければ先に進めない彼らにとってそれはやむを得ない行為なのかもしれない。しかし軽薄な言葉で民衆を扇動しようとするリーダーに多くの市民の支持が集まるものだろうか。

 

オリンピック開催で得られる便益は何なのか、どれほどの命が失われるリスクにさらされるのか。中止にした場合どれくらいの命が救われ、代わりに何を失うことになるのか。具体性を持った現実的で理知的な議論を望む。以前紹介したように新型コロナの影響については学者が色々なシミュレーション結果を出してくれている。感情ではなく理性に基づいた議論ができる素地は十分にあるはずだ。

『この状況』でオリンピック

とよく耳にするけど、もとより他国に比べて感染者の少ない日本が、高温多湿の季節を迎え感染も収まっていく中で「この状況なので」とオリンピックを中止にして他国に理解されるのだろうか。「他国の理解よりも人命だ」という意見が出るのは予想できるが命を盾に取って議論に蓋をするのはよくないと思う。それについては別の機会に書く。

ワクチンによるコロナ終息という道筋が世界中、特に欧米で見えているこの状況。日本でも目先の感染者数は減っている上、ワクチン接種率も上がっているのに「この状況でオリンピックは無理」などと言ったらさすがに訝しまれるだろう。

そもそも、この日経ニュースにも取り上げられているようにオリンピックを開催しても感染状況に大きな影響は出ないというシミュレーション結果が出ているわけだけど、中止を訴えているジャーナリストの人達はこれについてどう思っているのだろう。

反論するデータや知見を持ち合わせていないのならこの研究結果を議論に組み込まなければならないと思う。西浦教授のシミュレーション結果では大騒ぎしたのだから、こういう研究自体がナンセンスだという立場ではないだろう。

自分たちの主張を補強する資料以外は取り上げないでは、まるで「自分の見たい真実以外に見向きもしない愚かなネット民」ではないか。

ワクチン報道の見苦しさ

日本がワクチンを大量確保したとの情報が流れたとき、マスコミはワクチンの副反応について熱心に取り上げ性急な接種計画を諫めるような報道を行っていた。連日テレビでコロナの脅威を訴えていた医師も「幸い日本は他国ほど蔓延していないのでワクチン接種は様子見していいと思う」と普段の発言と矛盾することを言っていた。

 

ネット上では「どんな副作用があるかわからないものを押し付けるな」「そんなにワクチン打ちたいならまずは政治家が打て」という空気が醸成されていた。ワクチンは様子見するという流れが作られていた。

 

政府は世間の空気に流されずにやるべきことをやらねばならない。だから時間があったのにワクチンの接種体制を万全にできなかった点は責められるべきだ。しかし国民に副反応の恐怖を植え付けワクチン様子見の流れを作った人達が返す刀でワクチン接種遅れを非難し攻撃するのはさすがに見苦しい。

新型コロナと脱毛 後遺症報道のあやうさ

数カ月前の話だが、NHKの9時のニュースで脱毛の後遺症を大きく扱っていた。民放でも同様に扱われていた。この段階でコロナの後遺症と銘打って報道するのはえらく大胆だなと思った。

 

コロナ感染後に脱毛を訴える人が続出したとして、それがコロナ感染による後遺症なのか、他の要因によるのか(例えば単に壮年性脱毛の開始時期と一致しただけなど)簡単には判断できないはずだ。たくさん症例を集めて詳細な分析を重ね、複数ある脱毛要因の影響を排除できて初めて後遺症と言える。

ニュースではそういった可能性について言及することもなく脱毛症状を後遺症の疑いと伝えていた。「疑い」と付けて断定してないから問題ない、では済まない。社会的に高い信頼を持つNHKのアナウンサーが「コロナの後遺症で脱毛」と読み上げれば大抵の人は細部を疑うことなく素直に信じるからだ。あくまで可能性に過ぎないことを強調すべきだった。

 

ちなみに壮年性脱毛症を発症する体質と新型コロナへの罹患しやすさに関連が見られるというデータは出ているようだ。

pubmed.ncbi.nlm.nih.govこれが確かなら新型コロナ感染者に脱毛を訴える人が多いことに不思議はない。

コロナに感染した結果として毛が抜けるのではなく、壮年性脱毛症になる体質の人がコロナにかかるというわけだ。

 

ジャーナリストは人々の信頼に付け入ることなく誠実な報道をしてほしい。多分それは難しいことなのだろうから(徳に訴えるというのは個人的にも好きじゃない)義務教育にメディアリテラシーの授業を週4くらいで組み込んでほしい。今ならネットをスケープゴートにする(ネットはフェイクだらけとか)ことで高いハードルも越えられるだろう。

水際対策の話を飛ばしてオリンピック

オリンピックばかりが争点になっていて変だと思う。

オリンピック開催が危険だとされるのは海外から選手団と共にコロナが入ってくる可能性があるからだろう。しかし現在日本ではすでに海外変異種の感染が確認されている。すでに入ってきているのである。

批判するならまずここだと思う。水際対策の不備を指摘し、これを改善する方向に持って行かなければならない。オリンピックを中止にしても、入国制限、入国時の検査、隔離待機、これらを徹底できなければ結局またコロナは入ってきてしまう。

 

新型コロナが流行した当初から疑問だったが、なぜ日本は水際対策が緩いのだろう。そしてなぜその緩さがテレビで批判されず、議論の的にならないのだろう。本当に不思議だ。まぁ「人々が何を議論すべきか」決めるのは私のような力のない個人ではないからしかたない。

法律で強制力が認められていないとかなんとかで、そこに突っ込み入れてヤブヘビにしたくないみたいな話だったら嫌だなと思う。

厳格な水際対策、その議論が行われた延長線上でオリンピック開催の議論はしてほしかった。

抗体検査結果の報道

ワイドショーでテレビ局員が自ら「それでいい」と言ったように、コロナ報道は人々の不安を煽る方向に重み付けされている。日々感染者数が伝えられ「感染拡大が止まらない」「感染者数が高止まりしている」と危機を煽るが、その数が多いのか少ないのか私には分からない。判断基準次第だろう。当初から言われているように日本の感染者数は欧米に比べれば遥かに少ない。少し前にイスラエルがワクチン接種の進展で新規感染者が劇的に減ってきたとやっていたが、数字を見てみるとその数は大騒動の東京とあまり変わらない割合だった。

 

報道を聞いているとこの一年ずうっと感染拡大しているかのように感じられる。しかし今年2月だか3月だかに行われた抗体検査の結果は東京都民で1%程度だった。どうりで身近に感染者がいないわけである。ところがこの結果を伝えたテレビニュースがひどかった。アナウンサーが都民の抗体保有率を読み上げた後「まだ集団免疫の獲得には程遠い状況です」と繋げたのだ。これには驚いた。我々はいつ集団免疫を目指したのだろう。そのセリフはスウェーデンのような政策を取った国で言うべきである。

 

検査結果からは自分達が煽っていたほどひどい感染状況ではないことが明らかになったが、大したことないという情報はできるだけ伝えたくなくてこういう解釈に持っていったのだろう。この原稿を書いた人は本当にこれでいいと思ったのだろうか。報道する者として逡巡しなかったのだろうか。疑問に思う。テレ東の経済ニュース解説員だけはちゃんと「そこまで感染が広がっていなかったということですね」と自然な解釈を述べていた。